One is too many

『ひとつでは多すぎる』をモットーに色々挑戦したい。 ライフログ(旅・自然)メイン

7/6~7/11 まで 自分の半径に集中すること

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noteという媒体の中でもがいていた。SNS疲れというにふさわしい状態に陥った。

UI/UXが、どうも心理的に良くない気がする。たぶん。

 

特に ”スキ” 機能が強調されすぎていると感じる。

この”スキ”が非表示にできたら良いと思うが、、そのような設定が無いことに困っている。

 

古巣のはてなブログに戻って記事を上げることにした。

 

 

7/6

基本的には実家でごろごろしていた。

 

思い出すことがあるとすれば、電動キックボードの小物類が届いた。

ヘルメットやナンバープレート取付金具、空気入れなど。

 

7/7

保険証の継続手続き、現職の退職手続き、郵便局で諸々郵送、

役場で印鑑登録&原付ナンバープレートの申請・受け取り、心療内科への通院など、

慌ただしい一日を過ごした。原付のナンバーは特に指定していないものの、

分かりやすい、覚えやすい数字の並びになっていて嬉しかった。

 

一連の事務手続きで疲れてしまい、帰宅後は特筆することもなく夕食、風呂、就寝についた。

 

7/8

午前中は、読みたい本の読書に専念していた。

 

昼、実家のリビングに昼食を食べに行くとテレビがついていて、衝撃的なニュースが流れていた。両親はとんでもなく驚いていた。私はすぐに、ニュースの内容から思考をそらし、心を落ち着けることに努めた。自分の感情の範囲に入れてしまったら、とても沈没してしまいそうだった。それでも、心のざわつきはどうしようもなかった。

 

歴史的なことが、ライブで起こっている現実はとても受け入れ難かった。

 

昼食後は、どんなことがあっても、どんな結末になったとしても、

自分は自分として力強く生きていくしかないよなと思った。

 

午後は心がざわつく中、また読書に戻った。

 

そこからの一連の世の中の出来事は、ニュースによって広く周知されている通りである。

 

7/9

朝、朝食後に家の近所を散歩した。その中で、ぼんやり昨日の出来事を反芻してしまう

思考から逃げられなかった。

 

エンジニアの思考として、何かシステムで防げる手立てはなかったのか、

世の中の不具合・バグと捉えると、何かフィックスして、

事前予防する手立てができていたらと後悔する思考に染まっていた。

 

憤りとか祈りとかよりも、具体的にフィックスに向けて動いて欲しい、と思った。

 

祈るよりも、願うよりも、行動で予防策をとって欲しい、

再発防止に向けて一人一人が動いてほしい、

と他者に対して矢印が向いている自分がいることに気がついた。

 

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まずは自分のことに集中しよう、

自分がコントロールできることに専念しようと思考を切り替えた。

 

それは、まずは自分を充足させること、そして両親・兄弟が安穏な生活ができるように努めること、その後に、面識にある友人や知人、その後に、面識のない人類皆兄弟みたいな全ての人に思いを馳せる、この順序・グラデーションを持った考えは持っていたいと思った。

 

昼は、両親と斑尾高原の温泉に行った。お風呂の後は、まだらお温泉の施設内にある食堂で、

ミニカツ丼+ざるそばセットを食べた。温泉のお客さんは50代、60代と見える方が9割型で、

まるで日本の縮図みたいな場所だなと思った。

 

その後は、タングラム斑尾の公園をぶらぶら散策した。タングラム斑尾は平成みたいな場所だなと思った。名残というか、平成らしさ、昔懐かしい感じがあった。昭和というほど古くはないけど、令和という最新の感じはしない。平成というのにちょうどいい雰囲気であった。

 

斑尾高原から帰宅する車の中で思ったことは、長野の観光地はホテルが寂れている、廃れていると思った。それは、コロナの影響によって加速したかもしれないが、遅かれ早かれ、衰退する方向には違いなかった気がする。GoToトラベルは無くなってしまったし、観光バスはもう見かけることが無くなった。外国からの旅行客 受け入れも全然進んでいない。

 

世界はバーチャル化が進み、メタバース、仮想空間が発達していったら、人は物理的に移動する必要は無くなる。自動運転車さえ不要になる未来がくる、、のかどうか。全て、3Dないし4Dの映像空間の中で、脳に信号というか刺激を送っていたら、現実と仮想空間はもはや見分けがつかなくなる未来があると思う。それが人にとって幸せかどうかというと、デジタルによって代替できない部分はきっとあって、つまらない世界になるかもしれない。足が悪い人にとっては、あの世みたいな仮想空間は面白い世界かもしれない。そのような未来があったとしても、100年ぐらい先の出来事だと思うので、今から懸念する必要は全くないはず。手塚治さんの「火の鳥」にあったような世界は近づいているのだろうか。私には分かりようもない。

 

何をシステムにし、何をシステム化しないか

がより一段と問われる社会になっていくと思う。

 

デジタルの良い部分を取り入れ、アナログの良い面とも両立されたら一番良いと思う。

 

帰宅後は、特筆することなく1日を過ごした。

 

7/10

1日中、読書することで過ごした。選挙に関する話題はプライベートにつき割愛する。

 

7/11

読書と、兄のキャリアサポートに動いていた。兄がどうやったらうまく転職できるだろうか、私が思う限りのアドバイス、選択肢の提示、推奨するプランを挙げた。ただ、転職活動をするのは兄自身であって、最終判断は兄である。私は後押しすることしかできないと思った。

 

朝と夕方の2回、家の近所を散策した。

 

1回30分程度、家の周辺は農地が多く、

りんご、栗、とうもろこし、ぶどう、なす、ネギ、など多様な植物を見かけた。

 

実が日々育っていく様子を眺めているのは面白い。

育てる生産者はとても大変な思いをされていると思う。。

 

この野菜・果物が十分に成長したら、収穫され、誰かの口に入って、食べられる存在なんだよな、と当たり前のことをしみじみと思った。一体、どんな消費者の手に届くのだろうか、ファミリーなのか一人なのか、友達パーティかな、などと勝手な想像を色々思い浮かべていた。

 

話が逸れるが、そろそろ自分がバトンタッチして、世代交代というか、

車も運転できるようになっていかないとなとぼんやり考えていた。

もしもの場合は、救急車を呼ぶか、自分が運転することになる未来が見えた。

事実、そうなるのだと思う。

 

そういうことを思った1日だった。

 

 

きっと次の記事に続く。